腹話術愛好者たち
関係者のコメント

池田 武志
新JVA 日本腹話術愛好者の会代表
Japan Ventriloquism Arts
(旧・NPO法人日本腹話術師協会)創立者
22年前...NPO法人格取得の翌月(2001年11月)から、2019年10月までの間、国立オリンピック青少年総合センター大・小ホール他、東久留米市民ホール、山梨文学館、国立女性教育会館等々の会場において、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、インド、カナダなどからの素敵な一流プロ腹話術師たちを招いて、国際交流フェスティバルを16回開催しました。そして6149名の方々に腹話術を楽しんでもらったことになります。
出席者は沖縄から北海道、台湾、カナダなど全国から腹話術愛好者が参加し、専門的な腹話術の研修と親睦交流、そして各国の国際プロショーを楽しみました。
参加した海外メンバーは、合計102名、第1回目から10回参加のバディ・ビッグマウンティン氏やジュディ・ブッシさんの6回に続き、2013年は4回目参加のウェンディ・モーガンさん(2018年昇天)など多くの方が複数回参加してくれました。また世界の二大腹話術組織を代表するマーク・ウェイド氏やヴァレンタイン・ヴォックス氏等も複数回来日して、日本の腹話術普及と技術向上に多大な貢献をしてくれました。
彼らの腹話術人生の集大成である「出版物」を通しての影響は計り知れないものです。原作者のバレンタイン・ボックス氏の「唇が動くのがわかるよ」やマーク・ウェイド氏の「腹話術のテクニック」の本を、早稲田大学清水教授(故人)の翻訳によって、日本語で読めるようにしてくださいました。本当に感謝です。次世代の方々もきっと喜んでくれると確信しています。
これまで海外メンバーの貴重な言葉を日本語に訳す働きを担ってくださった国際的通訳者ドクター・木下氏や信常幸恵氏の見事な通訳に感謝しています。また安原篤子氏は、空港出迎えから観光案内まで、私の手足としてサポートしてくれました。
更に国際祭典の仕込みから片づけまで、腹話術愛好者の会チャターズ(1999年設立)の仲間たちが手伝ってくれたおかげで、滞りなく進めることができました。
新生日本腹話術師協会スタートにあたり、これらの方々のご協力に心から感謝します。
2021年4月1日より新たにJVA(Japan Ventriloquism Arts)日本腹話術愛好者の会として、正式に再スタートいたします。これまでのご協力に対し心から感謝申し上げますとともに、引き続きご支援ご協力を賜りたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
初心で再出発
青春時代の私が自分探しの果てに二十歳でたどり着いたのは、演劇の世界でした。貧乏生活を楽しみながらの舞台出演を繰り返し、マスコミの仕事では小さな役から主役と絡む大役まで事務所の仕事は一切文句を言わず取り組んできました。表現者としての仕事が大好きだったからです。その大好きな俳優の仕事も日本腹話術師協会創立とともに、テレビや映画の仕事からは遠らかざるを得ませんでした。つまりどんなに良い仕事が入っても、レッスン日と重なったり、ボランティア公演とぶつかった場合、すべて腹話術を優先してきたからです。
また国際祭典開催を決意してからは、ほぼ2年がかりで企画し、交渉し推進しなければなりませんでした。NPO法人格を取得してからは尚更のこと、日常の事務作業や義務付けられている年次総会の議案書つくりや、都への議事録提出及び法務局への書類提出など、大半は井澤元事務局長のおかげで何とか乗り越えてくる事が出来ました。法人のメリットは無く、義務や負担だけが増えてNPO法人格の返上となった事情もあります。
シガラミを超えて
新年度からの日本腹話術愛好者の会は、もっと伸び伸びと自由に取り組んで行こうと思っています。サポートして下さる方々を対象に、情報発信や国際的腹話術情報案内、更にこれまで手薄になっていた国内研修会なども充実させていくつもりでおります。
支援者の方々が、どのグループやサークル、団体などに所属していようと全く関係なく、同じ腹話術愛好者同志として対応して参ります。
私のミッションは、腹話術という素晴らしいツールを通して、様々な職業の方々がそれぞれ自分の専門分野に、自分の好みで、自分らしいやり方で活用して頂くことです。
腹話術の基本メソッド(習得方法論)は、誰でもが取り組めて誰でも楽しめて、誰でも楽しませてあげられる貴重な文化芸術・芸能です。だからこそ3000年もの時を経てもすたれず、多くの国で多くの人々に愛され続けているわけです。
地域貢献・社会貢献...次世代への貢献
腹話術愛好者の皆さま、ご自分の持ち味をもっともっと生かし、ご自分の地域でご自分のテリトリーで、腹話術を用いた活動を更に展開して参りましょう。そのためにも愛好者間の交流を進めると共に、またご自分のレベルアップの研修と共に、後輩の育成や地域での普及に取り組み、これまで習得したものを惜しげなく提供しましょう。
提供したからと云って自分の才能が無くなるものではありません。もし減ってきたら更に次のものを獲得しましょう。そのための場や情報を新JVAは更に提供して参ります。
そのためにも新JVAは世界の一流腹話術師たちとさらに交流を進めて、協力してもらおうと企画しています。そのために是非新JVAの活動を応援してください。
日本腹話術愛好者の会の、新しい船出を、共々にお祝いし楽しい腹話術人生を過ごしましょう。
2021年3月吉日

澤屋逸太郎
歴史の影に隠されてきた腹話術技能と日本腹話術師協会の役割
腹話術師・腹話術人形師 澤屋逸太郎
「腹話術は3000年も前から存在していた」とよく言われる。これは古代オリエントの残された遺跡に基づくものであるが、古代オリエント等と言われても日本に住む我々にとっては、遠い世界の夢物語としか思われない。魏志倭人伝の中に「卑弥呼は、鬼道を事とし、能く衆を惑わす」と書かれているが、鬼道とは超能力なのか、奇術なのか。呪術なのか分からないが、「衆を惑わす」とあるからには人が常識で理解できないような現象を見せていたのだろう。その中には言語に関する技能(腹話術技能)もあったであろうと想像される。卑弥呼がいたのは、三国志をはじめとする中国や韓国の古い記録によると西暦200~250年頃のことだと思うが、中国にはこの時代よりさらに数百年も前から幻戯(めくらまし)という芸能が存在していたという。これは今日で言う様々な芸能の総称つまり「雑技」と呼ばれるものだ。中国との交流があった卑弥呼は、幾つかの幻戯を知っていたであろうし、自分でも習得していただろうと想像してもおかしくはない。
さらに時代を過ぎて、西暦735年頃、奈良の政府は唐を真似て国の政治機構を作り替えたが、その時唐の皇帝が抱えていた散楽という芸能集団をそっくり取り入れ、今流に言えば国家公務員にしたという。正式には「治部省雅楽寮散楽戸」というのだそうで、約50年続いたと記録されている。散楽には音楽、舞楽、寸劇、物真似、曲芸、軽業、傀儡、奇術など今日のポピュラーな芸能が含まれていた。このようにあらゆる芸能が同じ建物の中で修行したということは、その後の芸能の在り方に大きな影響を与えたといえよう。この中には腹話術に関連する技能もあった事が容易に想像できる。
日本では、上手い下手は別にして、言葉を上手く話す、声色を変えて話す、唄を歌う等々は、走る、歩く、飛び上がる等と同様、当たり前に誰でもができる基本技能であって取り立てて「◯◯術」などと言わない根強い習慣が定着していたため、「腹話術」を表す言葉も70年ほど前迄は正式には存在しておらず、またそれだけを取り上げた記録も残っていないが、類似の技能は様々な形・様々な場に存在し、利用されてきたと思われる。
さらに、人形を伴って術者と話す現代腹話術のスタイルになってからは、まだ国内70年の歴史しかないが、今や現代腹話術の活用範囲は、単なる芸能の世界を越えてあらゆる分野に急速に広まってきており、腹話術技能の基本を一つにまとめていく組織活動がより必要になってきており、再編された日本腹話術師協会の役割はますます重要になってきているのだ。」

松澤功雲(日本腹話術師協会副理事長)
腹話術師・JVA公認インストラクター、殺陣師)
新生・日本腹話術師協会の発足に際して、我々年輩者の出来る事。
NPOとして色々な活動の実績を踏まえ、新しい任意団体として新体制の発足をお祝い申し上げます。思うに、今後の当会の発展は、特に我々年配者の活躍如何による、と考えています。
誰もが知る様に、人の世は、無常世界であり生まれては死に、死んでは生まれ、一時もじっと留まってはいません。常に流転しているのは御承知の通りですが、特に近年大宮に来てからその感強くしています。と言うのも、この所、個人的にも孫が生まれる一方で、義母が寝たきりの入院状態になるなど、身近に世代交代の流れを意識せざるを得ない状況となった事、又、高齢者施設をボランティアに行く機会が増えて、この間、元気だった人が、数日後にはもうこの世に居なかったりするのを目の当たりに見れば、諸行無常を改めて感じるのも無理からぬと思う次第です。特に私をはじめとする年配の者は、最近、風邪を拗らせ肺炎になって、命を落とすケースが多いとの事を見聞きし、そこで、昨日、肺炎球菌の予防注射をしてきました。65歳を過ぎて、未だ予防注射をしていない人は、是非ともこの機会に予防のワクチン注射を受けて下さい。
自分の為、家族の為、世の為人の為です。
最初に腹話術と関係のない、予防注射の話をしましたが、実は当「新生・腹話術師協会」にしても、年配者が元気で活躍する事は、当会発展の為、是非とも必要な事だからです。
我々にとっても、腹話術の世界で元気で活躍できる事は、自身の生きがいや、ボケ防止に繋がりますし、健康管理の目的にも合致します。
昼間のテレビのドラマや歌番組等を見て下さい。我々と同年代の俳優さんや、歌手などの昔のスターがマダマダ元気で、若い人に負けぬ元気な活躍をしているのを見るにつけ、「よし、俺も、私も!」と思って悪い事はありません。大いに頑張って、若い者顔負けの活躍をしてやろうではありませんか! なあに、この頃の若い者は全くだらしがなくて、大した事ないのは皆さんも思い当たる、と思います。きっちり差をつけて、我々の実力を思い知らせてやろうではありませんか? なんですか? 若い人が聞いたら気分を壊すかも知れない、って言うんですか? なあに、構う事はありません。誰もが知る様に、この頃の若い者は、絶対に文句など言ってはきませんよ。何分にも、意気地が無い事、呆れるばかりで、とっくの昔に、腑が抜けているのですから。

山本 一男(日本腹話術師協会理事、埼玉大学教授・腹話術研究家)故人
やまもと先生の駆け足ベント・ヒストリー
山 本 一 男
はじめに
皆さんこんにちは。私は自称腹話術研究家でございまして、まだはじめに自称がついております。
昨年まではJVA総会の後は何もなかったのですが、今年は総会に折角お出で下さる皆さんに、少しでもお役に立つ情報を差し上げられればということで、講演というと大変大げさなのですが、茶飲み話的に聞いていただければと思いお話することにいたしました。
私も腹話術を少し齧っておりますが、腹話術をやるに連れて腹話術に対する興味がますます湧いてきまして、周辺の色々な事柄をも調べたいという気持ちになりました。今日は、この2~3年の間自分なりに調べてみたことについて、お話しようと思っています。実はこういうお話をする機会というのはなかなか得られないものなのです。腹話術に関心のない人にとってはこういう話はまったく興味がありませんし、腹話術をやっている人でもパーフォーマンスに一生懸命で、周辺のことにまで興味を持つ人はそう多くはおりません。ですから、本日は自分が調べたことについて話を聞いていただけるということで、とても喜んでおります。
ここにおられる皆様は、腹話術の歴史についてどの程度御存じなのか分かりませんが、いろいろな人がおられると思います。バレンタイン・ボックスさんの書かれた「唇が動くのがわかるよ」という本がありますが、世界の腹話術の歴史については、ほとんどこの本に述べられています。また、3年ぐらい前に出版された「アザー・ボイス」という本にも、世界の腹話術の歴史について述べられています。これらの本は一回ぐらいさっと読んでも、なかなかその流れは分かりません。何回か読んでいるうちに、大きな流れがわかってきます。ここではこれらを整理して、概要をお話することにしましょう。
呪術に用いられていた古代の腹話術
腹話術の語源ということについては、いろいろな本に説明されておりますので、既に皆さんご存知だと思いますが、「VENTER = 腹」と「LOQUI = 話す」というラテン語からきているようで、これがフランス語や英語の「VENTRILOQUISM」になってきました。そしてその意味は「お腹で話す」ということです。このラテン語はギリシャ語から来たようで、ギリシャ人ヒポクラテスという人の著書の中に「病気にかかって死ぬ人の声がだんだん小さくなって、まるで腹話術のような声で死んでいく」というようなくだりがあるそうです。そこに腹話術師という意味の言葉がギリシャ語で書いてあるのだそうです。その言葉がラテン語になり、フランス語や英語になってきたというのが語源のようです。いずれにせよ腹話術というのは、後で日本の場合にも出てきますが、とに角基本的には、お腹と声、つまり横隔膜と声帯を使って演じる芸術だということなのです。
様々な文献にもたびたび出てきますが、腹話術というのは何千年も前から存在していたと思われます。旧約聖書にも口寄せという形で出てきますし、ギリシャやローマの文献にも交霊術や神託や占いといった形で出てきます。今でも未開地ではこういった形での存在があるようです。日本でも卑弥呼の時代から占い等に使っていたのかもしれません。この時代の腹話術は、なんとなくどこからか声が聞こえてくるという「ディスタント・ボイス」を使ったものであったのではないかと思われます。
特に中世、いわゆる13世紀から17世紀ぐらいまでは、キリスト教では悪魔の術として禁止され、迫害をされてきました。魔女狩りを始めとしたこれにまつわるいろいろな話が残っています。これらについては「唇が動くのがわかるよ」という本に詳しく出ていますのでお読みいただければと思います。
ディスタント・ボイスで始まった娯楽としての腹話術
次にこういった交霊術・神託としての腹話術が、娯楽としての腹話術にどのようにして代わっていったのかということについてお話いたしましょう。
娯楽としての腹話術もはじめはディスタント・ボイスを使ったものが主流であったようです。後で述べますが、日本の腹話術も最初はディスタント・ボイスを使った八人芸と呼ばれる芸だったようで、明治時代の始め、西洋でもこれとおなじようなことが行われていると感じた坪内逍遥という人は、雑誌に「西洋八人芸」という言葉を使って西洋の腹話術を紹介しております。
このように最初はディスタント・ボイスを使った芸が主流だったようです。今から300年位前、18世紀の初めごろ、イギリスのロンドンにはパブとかコーヒーハウスのようなものが流行っていて、そういうお店が沢山あったようです。そこで娯楽の対象として腹話術が登場しはじめたと言われています。その頃はどんなことをやっていたのかというと、例えば舞台にスクリーンがあって、その後ろで肉屋の3人が話をしている。そのスクリーンの向こうで犬が吠えている。また子牛が啼いていて、その声は子牛が殺されるように聞こえる。また人の話し声が聞こえる。そしてそのスクリーンがスーッと開くと腹話術師が一人だけ立っていて、拍手喝采というような芸だったようです。このようにディスタント・ボイスに今使っているような人形の声、物まね音などを巧みに組み合わせて、パブとかコーヒーハウスで演じていたという時代でありました。
イギリスは娯楽としての腹話術の発祥地で、イギリスからいろいろと世界に広まって行きました。18世紀後半のイギリスでは娯楽としての腹話術が確立したといわれています。それまではいろいろな形で腹話術が演じられていたようですが、18世紀の終わり、1796年にロンドンのサドナースウェルズという立派な劇場で、初めて腹話術が劇場芸として登場したと言われています。それはジョセフ・アスキンズという人です。実はこの人の功績を称えて、ラスベガスの国際腹話術師協会が毎年優れた腹話術師にアスキンズ賞というのを贈っており、2004年は日本にも来た事のあるドイツのスティーボという腹話術師が受賞しました。前年はエドガー・バーゲンが受賞しています。このように腹話術を劇場ではじめて上演したアスキンズは、戦争で片足を失い義足をはめていたので、1本の足で二つの声を使い分けるということで非常に有名になりました。その後、いろいろな形で腹話術師が登場するのですが、例えばこの当時、チャールス・マシューという俳優が芝居の傍ら、劇場の余芸として腹話術を余興的にやったと伝えられています。先ほどの坪内逍遥の文が掲載され明治の初めに出版された「趣味」という雑誌にもチャールズ・マシュのことが書かれており、イギリスのライシャム座という劇場でこの俳優が余芸をやったとその当時のことが書かれています。カーテンの向こうに寝台とかテーブルが置いてあって、なんとなく病人の声が聞こえたり、女中頭の声が聞こえたり、執事の声が聞こえたり、男の子の声が聞こえたりしていて、カーテンが開くと誰もそこには居ないといったものであったと書かれており、このようなことを俳優が上演していたということが記録に残されています。窓を開けると夜警さんが通りかかり、その夜警さんとひとしきり話が続いてそして夜警さんが遠ざかっていくなど一人でディスタント・ボイスを使いながら演じていたというようなものであったようです。
ちょっとした小さな人形も、既にこの頃から使われていたという記録があるのですが、基本的には現在使われているような形で利用されたのは、もっと後の時代のことのようです。このような八人芸的な腹話術は、19世紀半ばには大衆に馴染みの演芸となりました。「唇が動くのがわかるよ」の著者バレンタイン・ボックスという芸名は、1840年ロンドンで出版された「バレンタイン・ボックスの生涯と冒険」という本からとられたものです。その本に声を投げる達人としてスロウイング・ボイスつまりディスタント・ボイスの達人が出てきていろいろと冒険をするという内容なのですが、私も入手して読んでみたいと思っています。
こういうものをきっかけに、当時腹話術は人気を博したそうです。その後、イギリスのミュージックホールが腹話術の舞台の中心となりました。ミュージックホールというのは、腹話術の歴史上もそうですし、軽演劇の歴史では重要な役割を果たすのです。19世紀後半から20世紀の初め1850年頃から1900年代の初め、日本では幕末ですが、この頃にミュージックホールといわれる結構立派な建物ができて、ちょうど日本の寄席に当たるものなのですが、そこでは飲み食いをしながら芸を見ることができました。 そこでは手品あり、アクロバットありで、日本の寄席の色物のように軽業とかそのようなものが演じられていました。ちょうど産業革命が始まった後、労働者階級の生活がだんだんよくなって、みんな都市部に集まってきた時代なのです。その労働者階級の楽しみとしてミュージックホールというものがロンドンやリバプールなどに沢山できました。そういうところでの出し物の一つに腹話術は必ずありました。これが腹話術師達が食べていける素地のできる背景となったのです。このミュージックホールでいろいろと有名な人たちが現れてくるのです。
このミュージックホールがアメリカにも移っていって、ボードビル・シアターというのが各地にでき、アメリカとイギリスを芸人が頻繁に行き来していました。またイギリスは沢山の植民地をもっていましたから、オーストラリア、カナダ、インドにもかなり早くからプロの腹話術師が生まれています。当時のミュージックホールで活躍していた芸人が、世界を回り始めたのです。しかし明治になるまでは日本は鎖国をしていましたから、腹話術師も日本には来ていませんでした。
こういった腹話術の出し物の一つに「列」という人形家族ショーが大変人気になりました。つまり最初は一人の人間がスクリーンの中にいて声色だけで何人かを演じ分けていたのですが、そのうちに舞台の上にマネキン人形みたいな人形を置き始めたのです。これは舞台の上にいくつかの人形を置いて、その人形の間を歩き回りながら会話をしていくというようなもので、膝上人形が登場する前段階のものと言えます。
舞台の上にマネキン人形が置いてあるというスタイルは、実は一石堂さんが最近おやりになっています。彼は現在、全国をまわって腹話術の公演をやっていますが、先日私が見に行ったとき、その当時のアイディアをもう一度取り入れたような出し物をやっていました。
膝上人形の登場
さて、19世紀の終り頃になると本格的な膝上人形が登場しはじめます
1896年、明治28年に初めての本格的な膝上人形が登場しました。ロンドンのミュージックホールのパレスシアターというところで、現代腹話術の父と言われているフレッド・ラッセルという人が、コスタージョーという人形と共に出演し一世を風靡したと伝えられています。これは大変な人気だったようです。ここでいよいよ私たちがやっているのに近い形の膝上人形とのやりとりというものが始まったわけです。
1900年代の初頭には、アメリカで腹話術をやる人ならフレッド・ラッセルの最大の継承者として誰でも知っているといわれるアーサー・プリンスという人が、船の甲板の上で船乗りの人形ジムと演じる船上シーンを売り物に世界の主要都市を興行してまわり、これも一世を風靡したと言われています。
ついで1910年頃、ロンドンでデビューしたグレート・レスターという人が、ディスタント・ボイスを使った電話の声の出し物で大変有名になりました。
そうこうしているうちに、映画・ラジオというものが出現してきました。人々の関心はこの新しい映画・ラジオに移っていき、それまで盛んであったミュージックホールのバラエティーショーに陰りが出てきたのです。ところが一方で、腹話術は映画にも登場していたのです。
映画は1893年から1895年にかけて、エジソンやフランスのルミエール兄弟によって発明されました。日本にも1900年頃から無声映画がどんどん入ってきました。
これが1927年頃になると、トーキー化され喋りだしたわけです。1927年に作られた映画「ジャズシンガー」という初めてのトーキー映画はニューヨークで大人気になりました。日本には1935年頃からトーキーが入ってきました。
このように腹話術のみならず軽演劇は、時代的な背景に影響されてきました。
ここでエドガー・バーゲンについて話をしておかなければなりません。私が今までお話した人の名前は知らなくても、エドガー・バーゲンの名前ぐらいは腹話術をなさる人なら知っておいていただかなければならないと思うのですが、意外に腹話術をおやりになる人でも、エドガー・バーゲンの名前を知らないという方が多いのです。
エドガー・バーゲンは、1903年に生まれました。昨年は生誕百年ということで、アメリカで開催された腹話術関連のコンベンションでは、盛大に取り上げられていました。このエドガー・バーゲンによって現代腹話術のスタイルが出来上がったといっても過言ではありません。
エドガー・バーゲンについては、前出の「唇が動くのはわかるよ。」に詳しく記載されていますので、ぜひよく読んでいただきたいと思いますが、彼は、スウェーデンからアメリカに移住してきたアメリカ人で、あの有名なチャーリー・マッカーシーという人形を19歳の時に作って、シカゴでデビューしました。それから7年ぐらい地方廻りをするなどの経験を経て、ロンドンに行きます。ロンドンのミュージックホールなのか劇場なのかよく分からないようなところでデビューします。そして、イギリスに3年いましたが、その後アメリカに帰り、ニューヨークのブロードウェイのパレス座という劇場に出ていました。ちょうどその頃トーキー映画がどんどん出てきましたが、その勢いに押されてパレス座は潰れてしまいます。仕方がないのでナイトクラブのようなところに出演していましたが、今度はNBCのラジオに初めて出演しました。そしてラジオで大人気を博し、その人気をバックに映画出演もするようになったのです。そのバーゲンの出演した映画が日本に入ってきて、日本の戦前・戦後の近代腹話術の歴史が始まるのです。
戦後アメリカでは、大変優秀な腹話術師が沢山出てきました。特に22年も続いたエドサリバンショーというテレビ番組がありまして、日本でも同じのを見ることができましたが、この番組にはたくさんの世界の達者な芸人たちが出演しました。その中には何十人という腹話術師が出演しています。そして、今ではアメリカが腹話術のメッカということになっています。しかしオーストラリアでも、ヨーロッパでも、韓国でも、インドでも、世界の国々で、腹話術が盛んに行われています。特にインドは、イギリスの植民地であったことから、イギリスの芸人が行って教えたということもあり、アメリカよりも古くから人形を使った腹話術が上演されていました。第2回の腹話術の祭典に来日されたラムダス・バデイという人が、インドの腹話術について本を出しておられますが、そこにもいろいろと書かれております。
以上が、世界の腹話術の簡単な歴史ですが、次に日本についても触れてみたいと思います。
日本の昔の腹話術
昔の日本においても、当初は交霊術や予言・占いの手段として巫女さんが腹話術まがいのものを用いていたと思われます。私はまだ実物を読んだことはないのですが、平安時代に書かれた「今昔物語」という本に「物言う人形の話」というのが出てくるのだそうですが、腹話術的なものではないかと思われます。それから「南総里見八犬伝」には「怨霊が腹の中から声を出す話」というのがあって、悪い盗賊の首領が女性のお腹の中にいる子供を引っ張り出して食べてしまうという話で、悪霊が首領の腹にとりつき悪事を暴露する声が腹から聞こえてくるというのですが、これなども腹話術の声を使っていた人がいて、それをイメージして書いたのではないかと思われます。
それから忍者の術には「分身声術」というのがあるのだそうですが、部屋の中に何人もの人がいるように見せかけるなどということは当然考えられることだと思います。
「江戸の見世物」という本には、1778年ごろ初音耳作という耳から声をだす男がいたと記しています。また「寄席と色物」という本には、大正末期の浅草に耳から声を出して唄を歌う男・耳話技師というのがいたと書かれています。これらはディスタント・ボイスを用いたものと思います。
1904年に、ロバート・ガントニーという人がシカゴで、「プラクティカル・べントリロクイズム」という本を出版しましたが、雪蕾という人がこの本を明治39年に「吐言術」という題で邦訳しました。これは、腹話術の分野で外国の本を翻訳した日本で初めての本なのですが、この本の中に、明治の初めの頃に飴売りの翁が瓢箪に目鼻をつけ、奇妙な声を出しているのを見たという逸話が書かれています。多分昔は実際にこういうものが日常的に行われていたのだと思います。これとは別に、人に見せるための娯楽としての芸としてはどのようなものがあったのかといいますと、これが先ほどお話した八人芸というものなのですが、八人芸についてはあまり知られておりません。
バレンタイン・ボックスさんの書かれた「唇が動くのがわかるよ」という本や、「アザー・ボイス」という本には、世界各国の腹話術について述べられていますが、日本については詳細な記述がありません。
例えば「唇が動くのがわかるよ」では、多分文楽か何かをイメージしたのでしょう「日本では古い人形劇を現代に広げたものとして見られている」と述べており、ロゴス主催者の春風イチローさんの写真が掲載されて、その下に彼は腹話術の学校を開設して弟子に名前を与えていると書いています。
「アザー・ボイス」という本では、ゴスペル腹話術という項目に、春風イチローとその弟子で今は独立している高橋めぐみという人のことが書かれており、高橋さんの大きな写真が掲載されています。この本にも「日本には腹話術師はあまりいない。1940年の初め頃オギノという人がやっていた。また、婦人警官が交通指導に使っていた。そして春風イチローとロゴスというグループが腹話術を伝道に使って、大きなグループになっている」とだけ記述しています。ところが日本についてもいろいろと歴史があって、なかでも八人芸というものを外すことはできないのです。
八人芸と呼ばれていた腹話術
八人芸というのは、江戸の初めの万治という時代、つまり1650年頃に、洒落という座頭が江戸で演じたのが起源だと言われています。座頭というのは盲人の位の一つでしたから、この八人芸というのはどうやら盲人の芸だったようです。座頭という位は室町時代から登録制になっていたようで、政府に登録されてある程度守られていた職業だったと思われます。八人芸はこの座頭の芸として、一人で何人分かの鳴り物・声色を使い分ける芸のことだといわれています。前に述べた西洋の場合と同じように、スクリーンがあってその向こうで、一人で何でもやってしまうのですが、日本の場合は鳴り物入りということで、太鼓を叩いたり、三味線を弾いたり、雨が降ってくる音などの擬音など、そういう音と声を一緒にして演ずるものだったようです。例えば、すだれとか御簾があって、その向こうで義太夫の音が聞こえてくる、すると雨がパラパラと降ってくる、小僧と隠居さんの会話が聞こえてくる、そのうちに何か言い争いのようなものが聞こえてくる、雷が鳴るなどの後、御簾が上がると三味線を抱えた義太夫語りが一人座っているといったような芸だったようで、前述の西洋の場合とまったく同じ趣向のものといえます。こういうものが、江戸時代にも八人芸という名前で存在していたということなのです。これはある意味でのディスタント・ボイスを使った芸ですし、その当時黄色い声を出す人のことを俗に「八人芸の小僧のようだ」と言ったのだそうです。今私たちが腹話術に使っている子供の声みたいな、いわゆるボンチ声を出す人を八人芸の小僧のようだと言ったということは、八人芸ではまさにそういう声を使っていたということになろうかと思います。これが幕末の嘉永から文久、つまり1850年から1865年頃にかけて非常に流行したのだそうです。その名人は川島歌命とその一派という鳴りものを得意とした盲人のグループだったようです。その後、花房夫山という人の弟子で声色が得意だった牛島登山という人の人気が高まりました。牛島登山は独眼で盲人ではなかったので、これは盲人の芸だということで川島の一派が押し掛けてきて妨害したという話が残されています。その後、豊島寿鶴斉などという名人が出てきました。この辺りの話については、明治39年に出版された「趣味」という雑誌の第1号に坪内逍遥が八人芸について書いたところ、次の号に、実は何十年か前子供の頃に、私はそれと同じようなものを見たことがある、その時に牛島登山、豊島寿鶴斉などが名人だった、そしてこういうことをやったということが出てくるのです。そしてその副題として西洋八人芸という言葉を使って、西洋のそれと日本の八人芸を区別して表現したわけです。江戸時代においては、この八人芸は寄席の色物として必ずかかる常連だったようです。このことから、日本でも腹話術が江戸時代から演じられていたことがわかります。記録によりますと、豊島寿鶴斉は明治17年まで寄席に出ていたと言われています。また、大阪の盲人で西国坊明楽という人は、明治17年に上京して、16人芸と称するものやったと言いますから、いろいろなことをやったということなのですが、飽きられてしまって廃業してしまいました。そしてこの頃日本の八人芸は終焉を迎えたということが「見せ物研究」という本に出ています。
空白の50年
その後エドガー・バーゲンの映画を見て、多くの人々が腹話術を始めるまでの約50年の期間は、状況のよくわからない空白期間として、腹話術研究の一つの大きな課題となっています。この期間には腹話術は演じられていなかったのかということですが、一つ考えられることは、ヨーロッパやアメリカから腹話術の芸人が日本に来ていたのではないかということです。先ほどお話した「趣味」という雑誌にそれらしいことが書かれています。先ほどの次の号にもう一人の人が、「私はそれと似たようなものを明治35年、1902年明治座で米国人がやっていたのを見た。力持ちという芸の前座か何かで「奇声術」と称してやっていた」と書いています。これは八人芸的なものだったようです。当時は、明治4年にイタリアから歌と踊り、軽業・曲芸が来日していますし、同じ明治4年に曲馬団が来日しています。明治21年にはノアトンという手品師がやってきており、明治17年にはイタリアからサーカスがやってきています。こういったものが横浜のゲーテ座、新富座、中村座、明治座というところにかかっていました。ですからそういうものの一員として、おそらく腹話術的なものもやってきていたのではないかということが、十分考えられます。そういった古い劇場に残っている資料を調べれば、何か出てくるのではないかと思いますが、しかしこれを調べる手立ては今のところ私にはありません。
もう一つ興味があるのは、腹話術という訳語がいつから使われだしたかということです。前出の「趣味」という雑誌には腹話術という言葉は出てきません。この雑誌で坪内逍遥は「複語術」という言葉を使っています。これが何時どこで腹話術にという言葉になっていったのか知りたいところです。ロバート・ガントニーという人が、主にディスタント・ボイスの練習を中心に書いた「プラクティカル・べントリロクイズム」という本を明治39年に翻訳した雪蕾という人は、「吐言術」という言葉を使いました。じつはこの人は、なんでこの本を翻訳したのかということを書いています。彼が言うには、当時イギリスで有名になった秘密小説で「隠れ蓑」というウィリアム・ラ・キューズが書いた小説に、腹話術師が出てきて活躍するのだそうです。これを翻訳して「みやこ新聞」に掲載したところ、腹話術についての問い合わせが沢山あったので、そこで彼は腹話術を調べはじめ、腹話術の教則本を見つけて翻訳したというのです。「自分は腹話術の教則本を翻訳はしたけれど、自らこれをマスターしてこれからの芸能界に打って出て革命を起こす気力も何もないので、さらに腹話術に興味を持たれた方は、横浜のアマチュアクラブなどに問い合わせれば、これに近いことをやっている人がいるかもしれない」というようなことを書き残しています。このようにかなり古くから腹話術に興味を持っていた人がいたようです。
人形を使った腹話術の登場
アメリカでは1800年代の終わりぐらいから人形を使った腹話術が登場しましたが、日本では、エドガー・バーゲンの映画がきっかけになりました。エドガー・バーゲンは、ラジオで有名になった後、ちょうどトーキー映画が盛んになってきました。エドガー・バーゲンは、ルックスもなかなかよかったので、10本ぐらいの映画に出演しています。そのなかの数本は日本にも入ってきました。この映画に触発されて腹話術を始めた人が多かったのです。例えば、古川緑波、澄川久、川田晴久、花島二郎さんの師匠の花島三郎などが、バーゲンの映画に触発されて腹話術を始めたと自ら言っています。川上のぼるさんや小野栄一さんなどは、学生時代にバーゲンの映画を見たと言っていますが、彼らが活躍するのは戦後に入ってからのことです。では日本で人形を使って誰が一番初めに腹話術を始めたかということについては、いろいろな人がいろいろなことを言っています。古川緑波が1940年、昭和15年の1月に有楽座で実演したという記録があります。本人の古川緑波は「おそらく私が初めてだろう」と言っています。その当時映画館では、浅草のレビューのようなバラエティーショーの実演と映画が同時に上演されていました。緑波は自分の映画で「ロッパと兵隊」というものを上映しました。おそらくそのときの余興として腹話術を始めたのではないかと思われます。同じ頃、日劇を作った東宝の泰豊吉という社長が、アメリカに行ってエドガー・バーゲンの書いた教則本「How to become a ventriloquist」という本を買ってきて、日劇のオペラ歌手であった澄川久という人にこれを渡して「これをやってみてはどうか」と言ったのが昭和13年か14年のことだというのですが、この本が書かれたのは昭和13年ですから、それよりも後のことになるのだろうと思います。昭和16年の東宝名人会のプログラムの中には、澄川久が腹話術をやったという記録がちゃんと出ています。この頃になると、川田晴久や花島三郎などが腹話術を始めています。この頃はおそらく、余興としてやっていたというのが大部分だったと思います。つまり、やってはいたけれどもそんなに上手ではなかったのではないか、おそらく今の皆さんの方が上手なのではないかと思われます。
本格的に寄席の芸としてやりだしたのは、花島三郎、春風亭柳橋の弟子であった春風イチローなどであったようです。澄川久が93歳で、千葉で腹話術をやったという10年ぐらい前の新聞記事がありますが、なかなかハンサムな方です。そばにチャーリー坊やというのがいますが、おそらくこれはバーゲンの人形チャーリー・マッカーシーにあやかろうとして付けた名前ではなかろうかと思いますが、彼の腹話術を見たことのある人は、彼はなかなか上手だったと言っています。
いろいろな系統からの出身者がいた戦前・戦後の腹話術師達
戦前から戦後にかけていろいろな系統の芸人が、プロ活動として腹話術をやっています。以下に私が知っている範囲で名前を列挙してみましょう。
漫才系では、あざぶ伸という人がいます。この方は奥さんが相方でしたが亡くなってしまい、相方を探していたのですが適当な人が見つからないため、人形を使って腹話術を始めたという人です。それから歌謡歌手の灰田勝彦の司会をやっていた耕田実、それに成美ひさし、杉ゆうき等がいます。
落語系では、小金馬、現在の金馬ですが、あまりうまくはなかったということです。それに春風亭流橋の弟子の春風イチロー、名人会で入賞したこともあり現在もお元気な島三起夫がいます。
漫談系では、弁士から漫談に入ってそれから腹話術にきたという花島三郎、それに小浅浩司がいます。
歌手では先ほどの澄川久やミルクブラザースの川田晴久がいました。
この頃は既に女性の腹話術師もいて、お座敷芸者の神楽坂扇雀や不二家ミルキーの宣伝をした鎌倉扶美子などがいました。たいこ持ちをしていた牛込延八も腹話術をやっています。おそらくこの頃は、お座敷芸としても腹話術が演じられていたようです。
俳優系では、新劇出身であすなろ腹話術研究会の創設者であった竹村まこと、それに打越正八、浪速こけし等がいます。一石堂や日本腹話術師協会理事長の池田武志などもこの俳優系に入るでしょう。
声帯模写の出身は、古川緑波、小野栄一、ハリス坊やで有名になった川上のぼるなどです。
ダンサー出身では、先ほどアメリカの本に出てきたオギノという人に相当するのではないかと思われますが、日劇のタップダンサーの荻野幸久、この人はタップダンスを踊りながら人形を使いました。それに、松井明です。
司会者では、国際劇場の歌謡ショーの司会をしていた名和太郎がいます。この人の腹話術は大変上手だったそうで、飛行館や東宝寄席にも出演していました。
その他、手品の愛好家で手品協会の会長をしていたという柳沢よしたねという人がいます。彼はアマチュアでしたが非常に腹話術に造詣が深く、また上手だったそうで、腹話術に関する本も出しています。
大道芸人の海野つよ志という人も、腹話術をやっていました。
活動弁士では、谷天朗、松井翠声、山路幸雄、加藤柳美などがいます。日本では1900年ごろから1935年までの35年間、無声映画の時代が続きました。そのときに活動弁士というものが沢山出てきて、一時は7000人もいたということです。その中で頂点に立ったのは徳川無声、牧野周一、大辻志郎等後に漫談に移っていった人たちですが、1935年以降はトーキー映画に移行したため、活動弁士は失業してしまいました。ちょうどその頃バーゲンの映画が入ってきたりして、それを見た弁士たちの中には、これなら行けるのではないかと思った人がいたようです。無声映画の活動弁士と言うのは、腹話術に似たところがあります。スクリーンの動きに合わせて解説をしながら、男の声や女の声の声色を使って話す目と耳の錯覚を使ったものですから、おそらく腹話術に入りやすかったのだと思います。木下ぼく児は当時朝日新聞で人気の高かった4コマ漫画のフクちゃんの人形を作ってやっていました。
これ以外にもまだまだ沢山の腹話術師がいたと思われますが、このような戦前・戦後のプロの腹話術師達は、様々なジャンルからの出身者でした。昔はそんなに上手でなくても通用したようで、我々もこの頃活躍していたならば十分ご飯が食べられたかもしれません。世の中の動きとともに、こういったものは商売になったりならなかったりするものなのです。そしてその活躍の場の一つは寄席でした。
例えば松竹演芸場の出し物を書いた看板には、色物の一つとして必ず腹話術が出ていました。それに映画と一緒にやるバラエティーショーの一つとして腹話術が演じられていました。
また昔の流行歌手達は、歌謡ショーを抱えて全国いろいろなところを回りました。これには必ず司会者というものがついて回っていました。このときにただ司会をやるよりは人形を使ってやった方が面白いと考えた人もたくさんいましたし、興行主の方も人形だったらギャラを払わなくてすむということで結構重宝がられたという話があります。
それからこの当時は、学校回り専門の手配師のような興行主がいました。テレビなどもない時代でしたから、他に子供達の楽しみは無かったので、島三起夫さんに聞いた話では、学校回りでも結構お金になったということでした。
また昔は鉄道芸能社というのがあって、全国の国鉄の駅に勤める人たちやその家族、工事現場で働く人たちのところを回って歩く仕事がありました。鉄道だけではなく、昔は農村人口も高かったので、農村を回って歩く芸能プロダクションもたくさんありました。そのほかお祭りや開店キャンペーンのイベントなど、今よりはたくさん活躍する場所があったようでした。ですから当時の腹話術師達はそれだけで結構食べていくことができたようです。今はボランティアでということが多く、時代の背景というもの感じさせられます。
細々と続いていた腹話術の国際交流
2004年の10月に第3回腹話術の祭典が開催されますが、昔も国際交流が無かったわけではありません。明治の初め外国から芸人たちが日本にやってきて演じていただろうということが考えられますが、それ以降戦後になってからは、アメリカの芸人シャーリー・ルイスが来日していますし、アマチュアでしたがミスアメリカが来日して日本で腹話術をやったという新聞記事が残っています。
春風イチローの率いるロゴスというグループは、結構国際交流をしており、何十年か前に韓国で交流会を開いております。また、1977年にはロサンゼルスにエドガー・バーゲンを呼んで、アメリカから40人ぐらい日本から100人ぐらいが参加して交流会をしています。バーゲンが亡くなるちょうど1年前のことでした。さらに1986年にはシンガポールで、その後東京で交流会をしています。東京で開催した時はバレンタイン・ボックスさんを呼んで、腹話術の歴史などについて語らせたという記録があります。
いずれにしても幅広くというものではありませんでしたから、そういった意味では日本腹話術師協会の開催する腹話術の祭典・国際交流フェスティバルは画期的なものだということになります。
以上腹話術の内外の歴史について、駆け足で見てきました。日本では個人でひそかにやっているものは別にして、オフィシャルな腹話術に関する様々な研究はほとんどなされていません。腹話術の普及・発展を支える基盤として、いろいろな研究が行われ、発表されることは大切なことです。こういったところも日本腹話術協会の存在意義の一つかもしれませんね。